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かつて庄内で作られた釣竿は釣竿職人の手により作られたものではなく、すべて釣をする武士たちの手により作られたものであった。釣をする武士たちは自分自身のために作ったのが始まりで、自分が納得のいくまで何年も何年も手間隙をかけて一本の竿を鍛えたのである。その結果竹の採取から4、5年と云う長い年月をかけて、やっと竹から釣竿へと代わっていく。その始めにおいては、自分で使う竿を一生懸命に精魂を込めて作った。決して販売する為の釣竿ではなかったところに一つの特色がある。
庄内では磯釣りが武道の一つとして尊重されていた事から、釣好きの武士たちからは竿は刀と同じように考えられていた。為に秋保親友の「野合日記」にて述べられているように「名竿は名刀より得がたし」等と云う言葉が今日に残る。武器である刀と同じように、持ち物の善し悪しで勝負が決まると云う考えた武士が多かったからに相違ない。お年寄りに聞くところに寄れば竿を跨ぐと叱られたと云う。釣果を左右する竿作りを武士たちは、必死になって自分の為に何年もかけて納得のいく竿作りに精を出したのである。
ニガ竹の特徴として肉が強靭でシナリが良く、しかも細く長い事が上げられる。数ヶ所の藪の中から、竿に適する一本あるかないかの根付きの竹を選びに選び抜いて採って来た。そしてその竹の枝を払い、その後キレイに洗って乾燥させ木蝋を塗りタメ木を使い真っ直ぐにタメル。それを毎年行い、4~5年と云う年月をかけじっくりと行う。矯めを毎年行う事で竿はかっちりとシマリ、癖の付かぬ竿へと変化していく。その間囲炉裏の煙で燻し濃いアメ色の艶やかな色合いを付ける。これが自然の力でつけられた庄内竿独特の色となる。木蝋を塗って矯め、囲炉裏の煙で燻す作業は他の和竿の工程には無い。この独特の工程の結果、庄内竿は現役100年ともまたはそれ以上の命が吹き込まれる。
最後に穂先に釣り糸を結ぶ具付けを付けて仕上がりとなる。この工程を完成させたのが、現在の庄内竿の創始者と云われている陶山運平(1809〜1885、陶山儀明の3男)である。陶山家から分家した彼は釣が上手であり、しかも手も器用であったことから竿を作ったようだ。垂釣筌を書いた兄の陶山槁木(1804~1872、陶山儀明の長男)も釣り好きで、独特の焼鉤を工夫したが、その技を弟運平に伝えた。
陶山運平の竿作りの技はたった一人の弟子明治の名竿師上林義勝(1854〜1938)に、焼鉤は竿師中村吉次(1859〜昭和初期)に伝えた。この流れとは別に少し遅れて庄内藩の弓師支配方からも著名な竿師が生まれている。仕事柄、竹を扱う役職であったから、趣味と実益を兼ねたものであろうと考えられている。弓師支配方丹羽庄右衛門(弓師総支配300石、1883〜1912)、平野勘兵衛(1847〜1896、20石3人扶持)の二人である。事に丹羽庄右衛門の作る竿は、長さ7.3m径1.7cmと究極の細さで、その竿は藩主酒井家のお手本竿とされた。その後、大正末期から昭和にかけて最後の名人と云われる山内善作(1887〜1940)が出た。母の出身が陶山家であり、父(山内作兵衛)が竿師であった血筋であるからか山内善作の竿作りは、天才肌であったと伝えられる。誰に習ったと云うわけでもなく、幕末、明治期に活躍した各名人の技を吸収し役場に勤務の傍ら竿作りをしたと云う。惜しむらくは、役場を定年退職後、数年で亡くなられた事であった。
何故か上記の名竿師たちはすべて幕末からの武士か明治、大正、昭和期の士族の人達で占められている。武士の釣と云われた庄内釣りの面目躍如と云ったところか?不思議なことに、釣具屋で作られ販売された釣竿には、良い竿はあっても名竿と云われた竿は一本も残ってはいない。
一本の竹で作られた庄内竿の最大の特長は、魚の動きが手に取るように分かる事である。魚が餌に触り、喰らい付くそしてその瞬間の竿のシナリを直に感じられるのは庄内竿でなければ経験出来ない物の一つである。根元から少し先のところを腰と呼ぶ場所がある。細く強靭な竹は繊維が切れることもなく、その腰と呼ばれる所からスーッと穂先まで真っ直ぐに竿が伸びる。これが病み付きとなり、庄内竿のファンとなった者が多いのである。
庄内竿は時間がかかる事と竿に適する竹が少ないこと等に加え、グラスやカーボンロッドに押され少量生産のために高価になったが為に販売力が減り次々と竿師の方が減少し今日では伝承する者が極僅かとなってしまった。また、古い伝承のままの作りであったから、釣りの日進月歩の進化について行けず残念ながら衰退の一歩をたどっている。素人竿師の人たちが自家用の竿を作って楽しんでいるが、それらの多くは基本が出来ていないこともあり良い竿とは云えない物が多い。
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